宇喜多秀家
1572年-1655年

実父:宇喜多直家
実母:円融院

1581年に実父直家が病没。本領を安堵され家督を継いだ。1589年に同じく秀吉の養女になっていた豪姫を正室へ迎える。幾つかの戦いに参加し、五大老の一人となったが、副大将を務めた西軍が関ヶ原の戦いに敗北。死罪は免れ、八丈島へ流罪となる。
結城秀康
1574-1607年

実父:徳川家康
実母:於万の方
1584年家康から秀吉へ養子に差し出され、羽柴秀康を名乗り功績を挙げる。1590年に結城氏へ婿養子入りする形となった。徳川の後継者となることが出来ないまま、患っていた梅毒により、1607年に死去。父・家康に冷遇されてきたために、徳川よりも豊臣への思い入れが強かったという話もある。
豪姫
1574年-1634年

実父:前田利家
実母:芳春院
生まれて間もなく、秀吉夫婦の養女に出された。1689年に秀家の元へと嫁ぎ、2男1女を産む。関ヶ原の戦いにて西軍が敗れた為、娘と共に実家前田家へと戻された。その地においてキリシタンとなるも、八丈島への仕送り継続と引き換えに棄教することとなる。病弱だったらしい。
小早川秀秋
1582年-1602年

実父:木下家定
実母:杉原家次女
1585年秀吉の養子となり、1594年に小早川家へ養子入りする。慶長の役の折に自ら槍を持ち戦ったことを軽率な行動とされ、咎めを受ける。関ヶ原の戦いにおいて西軍から寝返り、旧宇喜多秀家領を拝領した。
豊臣秀次
1568年-1595年

実父:三好吉房
実母:瑞竜院
浅井攻めの折、秀吉が調略した宮部継潤へ養子として送られる。浅井が滅んだ後に返され、今度は四国での秀吉の影響力を強める為、三好康長の養子となった。秀吉の後継者に目され関白職を継ぐも、秀頼が生まれたことで次第に疎まれ、1595年切腹を命じされる。
豊臣秀勝
1569年-1592年

実父:三好吉房
実母:瑞竜院
九州征伐や小田原征伐に従軍し、甲斐を与えられている。妻は後に徳川秀忠の正室となるお江与の方。1591年に甲斐から美濃へ転封。文禄の役において、病没する。隻眼だったという話も残っている。
羽柴秀勝
1568年-1586年

実父:織田信長
実母:不明
1579年秀吉の養子となる。秀吉主導の信長の葬儀では、喪主を務めている。賤ヶ岳や小牧・長久手の戦いにも参加するが、病弱だったことが災いし1586年に病没する。秀吉が不在の時は、代わりに長浜の治世を行っていた。
伊達秀宗
1591年-1658年

実父:伊達政宗
実母:猫御前
1596年秀吉の猶子に送られる。幼い頃は秀頼の側小姓として仕え、関ヶ原の際には人質として宇喜多邸に居た。庶子であったため長男ながら仙台藩を継ぐことが出来なかった。大坂の陣後に伊予宇和島を継ぐ。1620年に起こった家臣同士の争いにより政宗から勘当を受けるも、後に解かれている。
小姫
1585年-1591年

実父:織田信雄
実母:不明
九州征伐後に秀吉の養女として貰われる。秀吉が抱きかかえて歩き回ったり、病状を心配する手紙を送るなど溺愛されていた模様。また別の秀吉からの書状では、秀秋、豪姫、鶴松と共に名前が出ることもあり、一緒に育っていたように思われる。鶴松が死去する約1ヵ月前に病没する。
菊姫
1578年-1584年

実父:前田利家
実母:隆興院
生まれて直ぐに秀吉夫婦の養子となる。後に近江商人の養女となったという話もあるが、定かではない。異母妹・千世の命により描かれたという肖像画が残っている。
完子
1592年-1658年

実父:豊臣秀勝
実母:お江与の方
実母お江与の方が、姉・淀殿の暮らす大坂城二の丸にて生んだ子。誕生前に、実父豊臣秀勝は文禄の役において病死している。徳川秀忠がお江与の方の輿入れに際し、連れ子を認めなかった為、淀殿が猶子として引き取り育てた。1604年、後に関白となる九条忠栄へ嫁す。子孫は現在の天皇家へ続いている。